藤森修 /建築家 デンマーク, オーフス

制作の道程で





北欧への夢

いつかは北欧で暮らしたいという漠然とした気持ちを抱いていた。甘い夢だったのか。東京では時間ばかりが残酷に過ぎていった。振り返ると、日常の業務に追われてその思いを失いそうになっていた。なぜデンマークに来たのかと、今でも現地の建築家から問われることが多い。東京にて勤務していた設計事務所の所長・水谷碩之先生に北欧の建築から仕事の方向を導いてもらえたことが大きかった。 
もうひとつのきっかけは、大学時代の親友が交通事故で歩行能力を失ったことだ。慣れない車椅子の友人をお見舞いに行った当時、いつか福祉の国で建築を勉強する、と僕は言った。自分の言葉にすぐに責任が果たせなかったけれど、15年後の現在、彼は九州の大学で福祉を教え、僕は、車椅子での生活を余儀なくされたデンマーク人家族のための住宅を設計している。

ユトランド半島

デンマークは多くの群島からなる国である。島々によって違った雰囲気をもっているため、訪島するたびに新鮮な印象を抱く。僕は現在、ドイツと国境を接するユトランド半島の東に位置する港町で、中世の歴史が色濃く残されているデンマーク第2の都市に住んでいる。オーフスという。街のシンボルであるヤコブセンの設計した「オーフス市庁舎」が建築的に有名である。
これはコンペでヤコブセンが勝ち取ったのだが、市庁舎のモニュメンタルな塔は、記念碑的性格を与えようという市の強い要望により、あとから計画して付け加えられたという。建築から権威性を取り払おうとしてきたヤコブセンの設計のわりに古典的な佇まいだ。建設中の1930年後半、向かいのホテルにアスプルンドが滞在して納まりの悪い箇所を指導していたという説は、現在は通説となっている。都市の範囲は狭く、屹立する街の大聖堂から車で30分ほど走ると、緩やかな起伏のある草原や風車、動物といった風景が広がる牧歌的なランドスケープが続いていく。デンマーク人は慎みさとおおらかさをもった気質で接しやすい。1968年「若者の蜂起」の影響で敬語が廃止され、年齢や性別、身分の上下意識が全くないからだ。
もしもバリアフリーという語があるならば、こういう土壌から発芽したのだろう。それにしても、こんなにも人とたやすく接することができるものだと驚くことがある。

オーフス建築学校

日本の書店にて小さな本を手に入れたことが、僕の進路に決定的な影響を与えた。ピーター・クックやレベウス・ウッズの刺激的なコメントを含んだその本の中には、まるで詩的な物語をつくるかのように建築を組み立てていこうとする姿勢が凝縮されていて、魅了された。僕は早速、出版社を通して著者のクリス・テュルボーンに連絡し、足早に彼の講演に参加することになる。彼はイギリス人建築家でRIBAのメダルも受賞したことのある人物だ。そして僕は彼が教鞭を執るユトランド半島にあるオーフス建築学校を知り、その環境に身を置くことに決めた。
ここはデンマークの文化庁にあたる機関が管轄する国立の建築学校である。およそ1000人の学生が在籍し、デンマークで建築家を目指す場合は、ここか、コペンハーゲンの王立アカデミーを卒業するかの選択肢しかない。5年間のカリキュラムだが、すでに大学を卒業してからの入学者や、インターンの期間が数年にわたる傾向があって、30歳くらいで卒業していく場合が多い。在学中に家庭を持つ学生も多く、幼い子供を学校に連れてくる光景は日本ではまず見られないだろう。ここでは2年次まで共通の課題を行うが、それ以後は各自、専門的な部門に進んでいく。建築に加え、家具、グラフィック、プロダクト、ランドスケープ、補修・修復を含め、全11部門があり、全てが「建築」教育の中に置かれている。たとえば将来プロダクトデザイナーを目指す場合でも建築史や建築設計を修得しなければならない。建築構造などは、芸術色の強いこれらの環境とは明確に一線が引かれ、別の技術学校でしか学ぶことはできない。シドニーのオペラハウスでのヨーン・ウッツォンとオブ・アラップ(共にデンマーク人)のように、専門を明確化したうえで仕事を纏めていくという体制がデンマークでは一般的のようだ。建築学校では3年次以降、設計課題しか行われない。商人の住宅や町工場が改修された校舎の中に各自の机が割り当てられ、担当の教員と徹底的にディスカッションし課題を進めてゆく。ひとりの指導者では方向性が偏ることから、外部の建築家や芸術家を前に中間発表する機会が多い。ここでは決して良い、悪いというコメントを受けることはない。最終的な判断は本人が下す役割を担わされている。他国のように、クリティック同士の意見が割れて別の議論を生み出してゆくといった光景も見ることはない。いつのまにか収斂して落ち着いていくというのは、民族性なのか。デンマークに限っての特徴かもしれない。

都市のコンテクストと建築

都市のコンテクストと建築をどう関係付けるのか、この国ではここから仕事が始まるといってよい。数世紀前からの計画地の変遷を地図で確認する作業も珍しくない。スケッチを始めるタイミングは遅く、その大半は調査と分析、そして議論に費やされることになる。
これは建築学校に限らず、後に僕も幾つか参加することになったが、組織設計事務所の仕事においても例外なくこの作業を繰り返すことになる。

古い建築のファサードが法的に守られ、インテリアのみ改装されるというのは都心部の特徴だ。まるごと新しい建築が建設されにくい状況への苛立ちは若い建築家が攻撃するところだが、新しさに排他的な姿勢を示しがちの市民の同意を得て、古い中世の街並みを変えていくのは容易ではないだろう。慢性的な失業率のデンマークにあって、卒業後、他国へ職を求めて散っていくのが近年の傾向だが、一方でオーフスにこだわり、画廊の改装やカフェ、住宅など小さな仕事を全うしようという若手建築家の仲間が増えた。前述したクリス・テュルボーンを含め、一匹狼で建築活動を行う姿勢は、所員が100人を超える設計事務所が珍しくないデンマークにあって、異端な身振りとして映っているようだ。これは現在の僕の活動に決定的に影響を与えた。
もう、他国で生きる漂流者としての心地よさは失った。いくつかの街で建築の活動に恵まれたのも、それとほぼ同時期だったと思う。

サムソ島

今、僕はサムソ島というデンマークのほぼ中央に浮かぶ孤島でこの原稿を書いている。島は自転車で周遊できるほどの大きさで、氷河期に海面から現れた起伏の激しいこの島は、デンマークの概略地図では海に沈んで描かれないことがある。17世紀、スウェーデンとの戦争の時代、軍の宿舎となった建物が滞在施設を併設したギャラリーになった。そこに僕は滞在している。隣ではニューヨークやオランダ、ドイツから昨晩やってきた芸術家が話し合っている。僕らはこの島に常設される小さな集会所や、彫刻庭園に置く作品などを、各自がコンクリート工場でつくる任務で招聘された。6カ国からの12人の芸術家と共に長期滞在することになる。当初、プレキャストでつくるため、僕は図面だけでいいということだったが、自力制作しろということになった。婉曲な言葉の裏に、多少歪んでもアートになることを望んでいると、みた。
この島にはかつてヨーン・ウッツォンが文化施設を提案したが、島の人たちの投票で賛否が分かれ却下されたという経緯がある。デンマークでは珍しいことではない。夏季には多くのドイツ人のツアリストで賑わうこの島の豊かな自然に恵まれたランドスケープは、島民を交えた厳しい建築規制で必死に守られてきた成果のようだ。この島のギャラリーで、今年の5月には僕の個展があった。その中で、かつてドイツ・ナチスにより占拠された、島のエッジに立つ灯台に隣接する文化施設を提案した。

オルボー

多くの工場がフィヨルド(海峡)に面して並んでいる、ユトランド半島の北にある都市オルボー。ここではサマーハウスを設計したこともあるので、よく足を運んだところだ。そして市の美術館での展示会場のデザインに取り組む機会があった。デンマークでアアルトが設計した唯一の建物である。竣工30周年記念の展覧会で「工場展」という企画だった。工場が取り壊されて内陸に移動しているのが現状だが、工場に愛着をもつ人が多いのだそうだ。キュレーターと共に工場をまわり、美術館に展示すべきものを決定していく作業と並行して、工場の匂いが漂う展示空間を協働者の建築家と共に考えるのが僕の任務だった。上品で洗練されたアアルトの空間を、工場らしい雰囲気に演出したいというのが要求だった。協働した建築家(ちなみに彼は京都大学の布野研究室への留学体験をもつ)と共にデンマーク文化賞にノミネートされることになった。

デンマークの住宅文化

オーフス郊外のチルストという新興住宅地に知人の家を設計した。
デンマーク人と結婚し家族を育んでいる日本人女性の家だ。
デンマークには日本のテーマ・パークがあり、キッチュなものだけれども郷愁を誘うのか、こういった和風の住宅で家族と過ごしたいという意見を持っているようだ。デンマークでは、仕事から帰宅してテラスで西日を浴びるのが至福の時間だから戸建て住宅のテラスは西向きが普通である。でも、彼女にはそれが受け入れられず、この家には朝日に向かっても大きなテラスが敷かれることになった。
オーフスの住宅地は規制が厳しく、市の建築家が率先して地域の景観を具体的に描こうとする姿勢には心打たれる。地域によっては家が左右対称でなければならなかったり、外壁や屋根の色、素材や構造が決められている。
この家の場合、金属板屋根が却下された。また廊下や扉の幅をもっと広げろという指導があった。いつか将来、突然に車椅子の友人ができて、その人を疎外させていいのか、と。
日本の文化とデンマークの文化。僕はまだ距離をつかめずに戸惑うことある。

 かつてデンマークに来た時に抱いていた目標は、今の僕が見つめているものとは大きくずれてしまっているかもしれない。今までの道程で多くの人に逢って影響された。過去に目指した目標が、数年もすると、もうどうでもいいことだったりすることがあるのか。そこに戻るには遠すぎるかもしれない。いま僕を囲繞する環境のなかで建築を見つめていきたい。

デンマーク地図

筆者。 新聞記事より。見出しは「ナチズムと芸術との統合」とある。

※以下のエッセイは2004年度に建築専門誌に掲載されたものです。
読みやすいように構成を直しました。是非見てください。

Essay

ヤコブセン設計の「オーフス市庁舎」 左隣はアスプルンドが滞在したホテル

オーフス建築家学校の風景

筆者が会場構成を手がけた
「北ユトランド美術館」での「工場展」

同上。 大ホールの様子 

筆者設計のサムソ島の文化施設
ナチスが占拠した灯台に隣接する

同上の計画を展示した個展風景

筆者設計のオーフス郊外の戸建住宅

筆者が設計中のオルボー郊外の
海峡に面したサマーハウス