デザインへの反省
 
(筆者:藤森修)




 昨日まで会社員だったのに急にホームレスになったという人がテレビに出ていた。社会に翻弄され、分岐道をどちらに向かっていいのか迷っているように見えた。


 あわせると今年78人のデンマークの建築家を東京案内したことになる。僕はいつも、違う文化で生きてきた彼らの物の見方に影響を受けてしまう。ガイジンがすることを気にしすぎるのが日本人の典型だぞと皮肉を言われることがあるけれど。新宿の地下通路では、退屈で無駄な時間を少しでも短く、急いで歩くことばかり気を取られていた。それまで僕は全く気にも留めなかったものに彼らの太い指先が向かった。


 大学生のときに上野かどこかで印象的な絵画に出会った。絵の左半分には、客席に座り映画を見ている後ろ姿の人たちが描かれている。右半分の絵にはうつむいた女性が独り壁にもたれて立ち、壁のランプが彼女の表情を照らしていた。頬杖をついて憂慮しているよう。不明瞭だが、中央には映画館の太い装飾柱がデンと描かれていて2つの世界が分断されていた。昔デンマークで映画を見たとき、スタッフに客席まで案内されたことがあった。絵のなかの彼女は客席案内役で、映画が始まったので映画館の外に出たところかもしれない。それとも彼女は観客のひとりで映画のシーンと心配事が重なってしまい席を立ち、映画館の外に出たのか。構図全体には無理があって、パースペクティブが歪んでいる不思議な世界だ。「ニューヨークの映画館 1939 エドワード・ホッパー」とある。映画を楽しむ観客と、憂慮する女性。僕は分断された右の世界と左の世界を一生懸命に結び付けてよくある日常的な物語を始めようとしていた。
  参考写真

 新宿地下通路に東京都が設置した突起物がある。
都は「ストリート・アート」と説明するようだがどう見てもホームレスに寝床の場所を与えない目的で散在させた障害物である。突起物の高さはまちまちで、斜めになっているからダンボールハウスもできない。450個までは数えたけれど、もう少し多いかもしれない。ここでは昔、段ボールが燃えて火事になったニュースがあったし、ホームレスはツンとした臭いがして不愉快だ。都民の代表者が苦肉の策としてこの「デザイン」を考案した背景は理解できるけれど、モノ自体が冷淡に無言で伝える情報はあまりにも冷たい。ジャンルを問わずデザイナーとは巨大で非人間的な都市という恐ろしい環境と、弱い存在であるヒトとを「デザインの力」で結び付けてきた職能のはずではないか。広場をつくったり、ストリートファニチャーを考えたりアートを設置したりしてきた。僕もそれをモチベーションとして仕事をしている。


 後ろから歩いてくる女性とぶつかりそうになったのでガイジンを地下道の柱の陰に誘導し、「あれは酷すぎる」と示した指先を振り返り僕は見た。笑顔で歩きながら向かってくる女性の脇には映画館の客席のようにずらっとホームレス避けの突起物が並ぶ。中央には柱。ガイジンの太い指先が2つの世界を切り裂いた。
  参考写真

 デザインの力が誤用されている。この突起物はデザインの暴力だ。
新宿地下通路とはこうした光景から目を背け、おびただしい人が無関心に横切っていく異様な環境ではないだろうか。指先にある物語がはじまったとき、客の前で店長が従業員を強い口調で叱っている場に出会ったような、居心地の悪いイヤな気になってしまう。

 強い口調でサインボートが発する「立入禁止」という情報は醜い。
関守石(せきもり・いし)とは「ここに入るのをご遠慮ください」という情報を伝える、シュロ縄で編み上げられたささやかな石をいう。慎ましく茶室の入り口にそっと置かれたりする。庭園などの分岐道の片方に置かれると「こちらではなくて、あなたの道はあちらなんですよ」の道案内のサインとなる。千利休のユーモアからはじまったという。


 100%designというイベントにあわせて僕は友人の建築家・松島弘幸と共にデザインの暴力を反省し代案をつくった。これは新宿地下通路という特殊な環境にひずみ、擬態(ぎたい)した関守石である。